オーギュスト・モアは困惑した。
学友たちと共に過ごした日々に囚われ続けて生きていることに。
彼らはもう皆死んだのに。
とっくの昔の出来事だのに今更困惑することがあるものかとお考えになるかもしれないけれど、それでも彼はゾンビのような日々の中、新鮮な困惑を更新続けている。
あるシーンが度々フラッシュバックする。
校舎近くのドラッグストアの駐車場、時刻は22時、みぞれ雪を乱雑に足でかき分けながら、まるでトランス状態になりながら彼らは笑いあっていた。
「もう明日死んでもいい。明日死んでもいい。」と。
一人を除いて。
場面はモアを含む二人と一人、モアとB、そしてCとする。
Cはこう云った。
「僕は好きな人と結ばれるまで絶対に死にたくない。」
その時の言葉はその時のモアとBにはおそらく届いていなかった。
高揚する表情が覚めぬまま、なだらかに2人は足を止めCを見つめた。
「後悔することはないの?漫画や映画の続きは気にならない?好きな人と会えなくなるのは嫌だ。僕は今、ぜんぜん満足していない。」
やけに切実な表情で話すCがなんだか可笑しくって、モアとBは顔を見合わせながらクスクスと笑った。
「今が一番最高だと思えるから。本当に今日このまま眠って、ずっと目が覚めなくても、それでもいいと思える日々だ。漫画や映画の続きが気にならないくらいに今いる場所を心の底から愛している。好きな人に囚われることも私たちにはない。」
高揚の感情だけをそのまま言葉にしたような台詞を、さも応えのようにモアは話した。
Cは少し口を尖らせながら雪を少し蹴り
「そっかぁ」と呟いていた。
このシーンの記憶はそれっきりだ。
あの頃のモアとBにとって、愛することや好きという感情は突き抜けた憎しみやどうしようもない醜さが含まれるなんてことは知らず、ただ純粋に眺め慈しむ、森の中の花畑の花や博物館のショーケースの中の宝石のような存在だった。
親友たちを亡くしたオーギュスト・モアは眠る前に考え事をする。
もう死んでもいいと思える毎日なんて、あの学生時代以来、来ていない気がする。
当たり前に来るであろう明日をさも信じて、布団の中でまた明日を生きるために今日死のうとする。
そんな時、心臓を握り潰されるかのような苛立ちと焦燥に駆られる。
話しかけると、Cはいつも決まって3秒の拍を置いてから「はい。」とだけ返事をする。
「C、今なにしてるの」と訊く。
そして形式的な儀式のように、確信となる話を切り出すタイミングを探りながら他愛のない話を始める。
モアはCと話している時、なぜかいつもあの日のことを思い出してしまう。
そして恥ずかしくなる。
あの日Cに言った台詞と同じことを今の自分は口が裂けても言えやしないから。
今が一番最高だとも思えないし、このまま眠ってずっと目が覚めなくなるのが怖いし、漫画や映画の続きだけに必死に縋って生きている。
そうして何より恥ずかしいのは、好きな人に囚われて自分がなくなる事こそ愚かなことだと考えてしまっていたあの頃、Cよりも自分が自由な存在だと優越感に浸っていた事だ。
今はどうだ。
どうしようもない好きという感情に振り回され、創作することも忘れ、何もかも満たされず、何かしたいのに何もできず、自分を満たす行為は創作することでしかないはずなのに、好きという感情で手軽に得られる自己肯定感に無様にぶら下がり、もう、作ることさえも億劫だ。
もう自分が自分のことを殺さないように、腫れ物を扱うかのように、死にたくて死ねない毎日をなんとか生きることしか考えられない。
本当はCと話す資格すらない筈だ。
愛だのなんだのと嘲笑していた自分が情けなくて、布団の中で潰れそうな時は今更ながらにCとの会話の中であの頃どうやって日々を生き抜いていたかの教えを密かに乞うている自分がいる。
地球という何もかもから守られたサンクチュアリから新しい惑星に飛ばされて一年、そこは全てが新しく、自由で、永遠に更新され続ける輝きの場所で、モアは地球から出てこの星に来さえすれば自分自身が何もかもが真新しく変化するものだと思っていた。
ぼやかしていた普遍的な好きという愚かな感情を綺麗に塗り替えて、理想とする「明日死んでも良い日」の継続、およびアップグレードをすることに努めようとしていた。
「C、あれから好きな人とは結ばれた?」
他愛もない話から、少しの沈黙の合間を縫ってモアは言葉を滑り込ませる。
Cは会話の句読点を置くかのように一拍また間をもたせ、息を小さく吸った。
「ううん。僕はずっと好きじゃない人には好かれて、本当に好きな人には好かれないみたいだから。あの時は好きな人と結ばれることを夢見ることこそが生きがいだったけれど今は違う。だけど今もそれなしにはいられないよ。好きになるのはどうしようもないことだから。結ばれなくても好きな人を好きでい続けるだけだよ。」
Cは幽霊だけれど、変化をしていた。
モアもまた変化していた。
だけども自分だけが後ろ向きに走り始めてしまった感覚に陥っている。
喜ばしくない、そんな変化だ。
新しい惑星で、自由なものも数えきれないほど見たけれど、同時に無闇で陳腐な変化を望む普遍的な存在達の数もまた途方もなく、それらに無意識的に触れ過ぎてしまったせいで、いつの間にか心が疲弊し自分もすっかりその一部になっていた。
今まで受け入れられていたことが受け入れられなくなって、そればかり増えた。
自由の星でいつの間にか何も自由ではなくなっていた。
そして不自由な地球に残った幽霊達の方が、自分がいない間にもっとずっと自由になっていた気がした。