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記憶と救い

過去の記憶に縋ること。
時にはそれを恥ずべきと感じることもあるが、生きているうちは避けようがない。
人間は、過去を材料とする料理である。
私はあるものに対して、縋りたくはないけど縋りたくなる、という自己矛盾につねに苦しんでいる。
きっと世の中の皆が、そうであるように。

「縋る」ということで、これを信仰とも似ていると言わせてほしい (無論信仰が恥ずべきあるいは悪いもの、という意味ではないのだが) 。

例えばキリストの伝説や、過去にキリストまたは聖書が教えてくれた事はすでに西暦的過去である。
あらゆる信仰は過去を起源としている。
人は罪を犯すことを前提に、信仰へ縋ることがある。
教徒たちは赦しのため、信仰の「貯金」をしているように感じる。

あるものに対して自己矛盾に苦しんでいる、と先に書いたが、私の場合はしばしば「かわいい」という言葉の呪縛に縋る。

小さい頃の記憶といえば、母が私を「かわいい」少女として育てたがったこと。
フリルを着せたがった。
スカートを着せたがった。
当時の私にとって母は、完全なるカルマ的セーフティネット、絶対的存在だった。
キリスト教風に言えば聖書であり聖母マリアだったから、母の言葉や愛情も絶対的なものであった。
信じていれば消えない物だと思っていたし、世界の何よりも重要な物であった。

私に「かわいい」の呪縛をかけたのは、母だけではない。
周りの大人たちからの「かわいくあるべき存在」としての期待をひしひしと感じながら、私はこうして「かわいい」の信仰貯金を始めた。
この記憶は今でこそ害悪的だと感じるものだが、当時はその暴力性に気がつかなかった。

「かわいかった」少女のころ。
「かわいい」と形容されて、それに応えようとする精神。
刺青のように私の意識には「かわいい」が刻まれていた。
当時は、幼児的な「かわいさ」だったはずだ。
それは徐々に少女、女性としての形容を意識するようになった。

記憶上、誰かが私に「かわいい」「女」になることを直接的に強制したわけではなかった。
なってほしいという穏やかな願望の五月雨を浴びる事はあっても、びしょ濡れになる事はなかった。
私は「かわいい女の子」にはどうしてもなりたくなかった。

「かわいい」と形容されていた過去(幼少期)を卒業したいという気持ち。

「かわいい」と形容される「女らしさ、清純さ、か弱さ」など、期待される「性的対象性」を否定したい気持ち。
この2つの意識が、「かわいい」を私から遠ざけていた。
それが特に表現されていたのは、小学校高学年から高校3年生までの約8年間だった。

思春期を経て様々な文化に触れ、「かわいい」はいつしか性的な評価を一切排除した「すてき、尊い」という意味的側面“も”持つことを知った。

私の幼少期は、「尊かった(かわいかった)」のだろうか?
私の思春期は、「すてきだった(かわいかった)」のだろうか?
おそらくどちらも、「弱者であり守りたいもの」としての「かわいい」だったと思う。
それは時に、性的な意味合いを孕んでいた。

今現在、私の口から発せられる「かわいい」は意図的に性的な意味合いが排除されている。
女性を安易に「かわいい」と形容はしないし、誰かの「かわいい」という言葉にも安易に賛同せず、飲み込むようにした。
だが全くその表現を使わないのではなく、時折使ってしまうのが実際のところである。

制限されればされるほど介入したくなるのが人間の厄介な心理だとつくづく思う。
過去の「かわいい」が「欲望」として私に迫る。
「かわいい」と評価されることを望む自分が常に背後で生きていることに気がつく。
私は時々、「かわいい人」になりたいと願うようになった。

今の私にとって「かわいい」という過去の評価は、身体に纏わり付く脂肪のようなものだ。
寒い時には微力だが私の身体を守り、暑い時に人の目を気にする原因となるようなものだ。
打ち消したはずと思っていても、必ず自分の中の奥底に存在しているファットフォビアの破片に辟易し、時に手を切ってしまう(ファットフォビア反対)。

「かわいい」も、「脂肪」も、その言葉に付随する感情や残る物は違えど、社会が用意した国民年金のような強制貯金行為である。

私はたまに、悲しくなると「かわいい」に縋るようになった。
私は「かわいい」から大丈夫。
記憶の中に散らばった過去の貯金を、泣きながらかき集めて数える。
確実に心を癒してくれる。
私は「かわいい」を「すてき」や「尊い」へ変換させるようになった。
私は「すてきで尊い(かわいい)」、だから大丈夫(けれど、私は誰かに必要とされているだろうかーーー)。
不安になると、この行為に取り憑かれて自らの「必要性」を確認するために自分自身を何らかの手法によって消耗させてしまう癖がある。

誰からどう切り取られようが私の記憶では、少なくとも幼少期、私は「かわいかった」。
これは紛れもない事実でありその頃の写真をやたら眺めたがるのも、プロフィール画像にしたがるのも、貯金に泣きつく時だ。

ただ、現在は「かわいい(性的に魅力)」と自ら評価したり誰かから評価される事は、どこかでエンパワメント的な名誉を感じながら、それを感じている点、屈辱的でもある。
性的魅力を否定したいのに、少しでも拠り所にしてる自分の存在を残念に感じて仕方がない。
「かわいい」では惑わされるので、水晶のように澄んだ響きのある「すてきだ」という表現を推奨するべきか。

「かわいい」は時として屈辱的ではあるが、一時的な「救い」であり希望となっていることは事実としてある。
しかしこれは永続的なものではなく、非常に脆く錆びついた「救い」である。
その脆さにもかかわらず、力一杯握りしめている私は、結局は「かわいい」をある側面から排除しようとする自らの意識によって迫害されている。
極限状態の中でわずかな希望に対し篤い信仰心によって縋る異教徒のようなものである(私が、極限状態にいるとは到底思えないが)。

私がこの矛盾的な「救い」と記憶の呪縛から解かれるのはいつだろうか。
自己矛盾を抱える事は人間が人間たるもっともな所以であり、ゆえに、私は生きている。



人間という本来たかが肉塊でしかない料理の味をよくも悪くも「救う」、
「記憶」という名の絶望的に魅力的なスパイス。

この記事を書いた人

m.o.n 

フェミニスト。1997年生まれ。宮城県仙台市出身。あらゆる差別に反対。反戦反核。zine、詩、アートワーク。